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小松寺・薬師神社

小松寺は980年代の「日本往生極楽記」や1120年代の「今昔物語」の説話集に登場し、その創建は880年代の東夷平定記念や900年初頭の延喜年間の勅願寺に根拠を求めておりました。しかし多賀城(724年)を取り巻く天平の五柵の一つの「新田柵」(737年)が田尻地区に存在することが確実視される現在では、上記の説話集に登場する「新田郡小松寺」は蝦夷との征戦勝利を祈願するために新田柵に付属していた守護寺院でほぼ同時期(740年前後)に創建されたと考えられます。

小松寺は980年代の「日本往生極楽記」や1120年代の「今昔物語」の説話集に登場し、その創建は880年代の東夷平定記念や900年初頭の延喜年間の勅願寺に根拠を求めておりました。しかし多賀城(724年)を取り巻く天平の五柵の一つの「新田柵」(737年)が田尻地区に存在することが確実視される現在では、上記の説話集に登場する「新田郡小松寺」は蝦夷との征戦勝利を祈願するために新田柵に付属していた守護寺院でほぼ同時期(740年前後)に創建されたと考えられます。

時代が下がり、岩手奥六郡の俘囚長の安倍氏の勢力圏が岩手南部、宮城北部まで及ぶに至って多賀国府軍との前九年の役(1051~1062)の戦いが始まりますが、最後は安倍氏が敗れ賊軍として滅亡します。安部氏は平泉黄金文化を築いた藤原清衡の母方ですが、朝廷に謀反を起こした賊軍であり墓もない状態でした。

小松寺は安倍氏の一族が住職をしていたと推定され、藤原清衡あるいは基衡が菩提寺的に小松寺を再興して木造千手観音坐像を安置した可能性があります。

源頼朝が1189年に藤原氏を滅亡させた後はこの地を所領した畠山氏、大掾氏、その後は大崎氏に庇護されたと考えられます。大崎氏3代詮持が1370年頃に小松寺の対岸、大崎沼を挟んだ小野に居城を築城したときに祈願時として再興されています。

大崎氏が1590年豊臣秀吉に所領を没収された後は仙台藩2代忠宗が1641年に再興しましたが明治になり廃藩置県で寺禄が無くなり廃寺となっています。忠宗は隣に薬師堂も建立しており小松寺廃寺後、千手観音坐像は薬師堂に移されましたが老朽化で薬師堂も建替えられ、昭和7年(1932)に作られた観音堂に移されています。

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